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ロッホサイド
ソサエティ初ボトリング 1991年
ブリュワーズの衣料品蒸留所
ロッホサイドは1781年に醸造所として設立された。
19世紀後半に再建されたビクトリア様式の蒸留所の多くは、その安定と不屈さを反映している。
蒸留所自体はまだ現存しているが、解体の予定が入っているという。
もともとは明るい黄色であったペイントも、経年劣化でクリーム色になり、道路の反対側にある瓶詰め工場や、豊富なストックを保有する貯蔵庫の敷地であった畑には、長く生い茂った草や野花が群生している。
蒸留所の門までの桟橋だけがその場所に残っている。
7月のスコットランドの穏やかなある日、スコットランド東部で全英オープンが始まった時、私はカーヌスティに向かう田舎道を走っていた。
しかし、私は伝説のゴルフコースから離れて北に向かい、ロッホサイド蒸留所とゼネラルマネージャーであったチャーリー・シャープを訪ねた。
海軍での兵役を終えたシャープ氏は、醸造所から蒸留所に転換された1958年に、ロッホサイド蒸留所で働き始めた。
彼は蒸留所として操業されてきた40年の間ウイスキー作りを見守ってきた。
そして彼は今、この蒸留所の最終的な世話人としての立場でその蒸留所の行く末の決定を待っている。
この蒸留所のウイスキー界での進撃を目撃した男が、その顛末を見守るのに最適な人物であることはいうまでもない。
蒸留所内の会議室に座り、ロッホサイドで蒸留されたウイスキーの記録書が置いてある古い机の上に座った。
その場所はロッホサイドのこれまでの総括を振り返るのに最適な場所であった。
ロッホサイドが18世紀後半に醸造所としてその活動をはじめた頃、その場所は良質な土壌として知られていた。
現在の蒸留所の南と西の粘土領域を指している。
1830年の醸造所としてのロッホサイドは、近くの地域に位置するメアリー・ロッホを指していたため、蒸留所として創業した初期の頃には何度か名前が変更された。
1833年にジェームズ・デューカーが醸造所を買収し、現存している醸造所の再建と水源の確保に着手した。
エルギン地区のいくつかの蒸留所を設計した建築家チャールズ・ドイグは、ドイツとベルギーで使用されていたバウハウスデザインを反映した、新しい建物を建設した。
お城の天守のように丈夫な建物の上階では湯と冷水を利用した醸造プロセスを開始し下階ではビールとしての仕上げ用の設備を備えていた。
出来上がったビールはすぐに地元のパブやニューキャッスルのタインサイドの市場に運ばれた。
この世紀の前半には、醸造所はモントローズの波止場から「ビーリーズ」と呼ばれた帆船でニューキャッスルの波止場までビールを運んでいたという。
こういった経緯からスコティッシュ&ニューキャッスル醸造所が1956年にロッホサイドを買収し、生産を続けたが、すぐに閉鎖され、すべての事業をエジンバラに移転した。
その後1957年に、ロッホサイドはジョセフ・ホッブスを含む、いくつかの投資家が所有する登録会社マクナブディスティラー社によって購入された。
ジョセフ・ホッブスはヒルサイドのグレーンウイスキー蒸留所や、フォートウィリアムにあるベンネビスなど数々の蒸留所での功績でウイスキー産業に名が知られていた人物であった。
彼のロッホサイドへの関心は、1961年までシングルグレーンウイスキーを生産することだけにあった。
1960年代初期には、たくさんのグレーンウイスキー蒸留所が建設された。
特筆すべきはインヴァーゴードン蒸留所で、大量のグレーンウイスキーをより効率的に生産することができたという。
流行の先を読んでいたホッブスは、醸造設備の一部をポットスチルに変換し、グレーンとモルトの両方をロッホサイドで蒸留し、ブレンドに使用した。
これは、ホッブスの「BLENDING AT BIRTH」のアイデアと調和していた。
このブレンドは、グレーンとモルトの両方を蒸留後すぐに組み合わせたものをいう。
これらの工程の多くは、ジョゼフ・ホッブが亡くなった1964年に終了し、最終的に1971年に蒸留所が閉鎖された。
スコットランドのモルトウイスキーを使用してスパニッシュブレンドウイスキーの品質を向上させるために、Destayias Y Crianza Del Whiskey(略称DYC)が蒸留所を購入するまでの2年間のみロッホサイドは閉鎖されたままであった。
ロッホサイドで生産されたウイスキーの大部分は、1996年まで熟成されたウイスキーが熟成庫からスペインに出荷された。
セゴビアのDYC用のシングルモルトの生産と並行して、ブレンデッドウイスキーもロッホサイド蒸留所でボトリングされていた。
その後、1987年、オーナーはシングルモルトのボトリングを始め、10年もののロッホサイドシングルモルトをリリースした。
このシングルモルトは繊細なアロマをもち、ピートのヒントを持つ。
味わいはノージングで最初に感じられたピートのエコーを伴い、バニラの甘さも含まれていた。
スペインでのDYCのウイスキー販売の功績によって、同社は1992年にアライドディスティラリー社に加わった。
同年6月にロッホサイドシングルモルトの生産を終了し、1996年にすべてのストックが枯渇するまでウイスキーが売られた。
その後蒸留所は閉鎖され、残りのスタッフは解雇された。
DYCはグレーンスチルをロッホサイドで使用したことはなかったが、マッシュタンと9つのステンレス製ウォッシュバックとともに蒸留所に残っている。
マッシュタンとウォッシュバックにはカバーがなく、それらが満たされたとき、マッシュの甘い麦汁の香りと「サイダー様の」発酵のアロマが部屋に充満していたという。スチルルームには4機のスチルがあり、各スチルはどれも形が似ていて伝統的なオニオン型のスチルに、背の高い細いネックから若干下向きの角度を持つラインアームを備えている。
そのスピリッツは、今は存在しない熟成庫にてバーボン樽で熟成されていた。
古い蒸留所の一部は、北ハイランドのブリーキン蒸留所と運命を同じくスーパーマーケットのスペース確保のために取り壊された。
残りの建物の一部は平地にされる可能性があるというが、その地域の多くの人々は、少なくとも古いバウハウス調の塔を地元のランドマークとして残しておくべきであると強く感じている。
200年に渡る生産の中で、ロッホサイドは醸造所として服を身に纏い、最後の40年間は蒸留所としてのみ服を着た。
しかし、ロッホサイドは、この半世紀の間、蒸留所のクローゼットにあったすべての衣服を着用したかのように思える。
蒸留所はグレーンとシングルモルトの両方を生産し、その後ウイスキーを貯蔵し、最終的にブレンドしてボトリングした。
シングルモルトは10年未満の期間のみ販売されていたため、蒸留所には思い出のひとつとしてのみ含まれているかもしれない。
コレクターの棚に残るボトルとモントローズのランドマークの塔だけがウイスキーとその場所に印をつけている
もう間もなくして、蒸留所のしっかりした石壁、古い税関のオフィス、銅製のスチルが壊されてただの鉄の塊になってしまう。
チャールズ・ドイグの建築やウイスキー、そして蒸留所は、20世紀のすべての変化の証として失われてしまうのは実に惜しいことである。
設立年
1781
状態
閉鎖
場所
Montrose, DD10 9AD
地域
ハイランド