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カースブリッジ

カースブリッジは1798年6月15日、ジョン・ボールドとジョン・フランシス・アースキンがマー伯爵からカースブリッジ近くの土地を借り、住居やオフィス、機械工場など蒸留所に必要なものを隣接して建てられた。 年間賃料は「17ボルト1ファーロットの良質な大麦」とそれと同量の小麦であった。近くには豊富な石炭とガートモーンダムの良質な水があり、フォース川沿いのアロア港への近さが利点の一部であった。 カースブリッジでは初めはモルトウイスキーを作っていたが、1850年に、グレーンウイスキーの生産に切り替えた。 グレーンウイスキーの市場はブレンデッドウイスキーの発展により拡大していった。1857年にスコットランド全体の生産量は7,500,000ガロンに達し、モルトウイスキーの生産を追い越した。しかしグレーンウイスキーの過剰生産のあおりでいくつかの蒸留所の価格暴落や、経営の存続まで危ぶまれることとなった。 1877年にまた同様の状況が生じ、相互保護のためにカースブリッジを含む6つのローランドのグレーンウイスキー蒸留所が合併してDistillers Company Limited(DCL)を形成した。 1886年にカースブリッジを訪れたアルフレッド・バーナードは、その規模に賞賛を送った。 "作業場は非常に広範で、総面積は10エーカーにもなる。 "ミルルームには13機のミルがあり、タンルームには「その大きさと能力を誇る20の精巧なウォッシュバックが軍隊のように陣形をとっていた。スチルハウスには2つのエレガントなコフィーのパテントスチルがあり、エンジンルームには組み合わせて400馬力生み出す14のエンジンがあった。当時、スコットランドではおそらく2番目に大きなグレーンウイスキー蒸留所である。 バーナードは、単に蒸留所の設備の記述をするだけではない。 彼は近くの養鶏場に特に興味があり、蒸留所がモルトからグレーンに変わったときに養鶏所が出来たという。 私たちの訪問時には、彼らは非常に騒々しかったが、空気中のウイスキーの臭いは明らかに彼らの舌を緩めていたという。養鶏の様子はバーナードのイラストで見ることができる。バーナード氏はまた、火災に対する蒸留所の予防策についてもコメントしている。それぞれの蒸留器は上部に巨大な水槽を別々に収容して、もしもの火災の際はその水が消火に回される。 Shand&Mason社製の蒸気式消防車と40人の訓練された消防隊も近くにいた。残念ながら、これは蒸留所が1902年に火災によって、4万ポンドの費用と9ヶ月の生産量を失ったことを止めるには至らなかった。第一次世界大戦後、大規模な生産調整が行われたが、1927年までの間、カースブリッジでは、年間数百トンの酵母も生産していた。その年の記述では、最先端の電気設備、機械式石炭処理プラント、空気圧縮機、自動マッシュタン排出システム、実験室、酵母用の広範な冷蔵設備、および現代の吸入乾燥機が誇らしげに言及されている。同紙は、「酵母部門の日中の作業は女性によって行われ、夜間の作業は男性によって行われている」と指摘しているが、「機械は昼夜を問わず生産を続ける賛美歌を歌っていた」と残している。 1938年にカースブリッジでの酵母の生産は終了し、蒸留所は1956年に近代化された。1966年にフロアモルティングは取り除かれ、さらなる拡大が可能となった。 1970年代には、新しいスチルハウス、新しい樽工場、新しい動物飼料工場が見られた。 1980年までにはスコットランド最大のグレーンウイスキー蒸留所となり、3つのコフィスチルを保持していた。 しかし DCLグループの多くの蒸留所にとって不遇の年である1983年、カースブリッジは閉鎖された。 1992年に蒸留所は取り壊され、10エーカーにまで及んだ建物は跡形もなく無くなってしまった。 残ったのは、スコットランド周辺の倉庫に保管されている樽だけとなった。 そしてそれらは悲しいことに非常に稀にしか見ることが出来なくなってしまっている。

1798
閉鎖
Alloa, FK10 3LU
スコットランド-グレーンウイスキー