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バルメナック

ソサエティ初ボトリング 1987年
バック・トゥ・ザ・フューチャー 1999年、デニス・マルコムは蒸留産業での43年のキャリアを成功させ退職に向かっていた。 彼のキャリアは1960年代初頭に交代勤務労働者として始まり、シーグラム社の9つの蒸留所をとりまとめるゼネラルマネージャーとして、世紀の終わりと共に引退するという非常に満足のいくものであった。 彼が達成できることのすべては終了しているかに見えた。 しかしマルコムは、インバーハウスのゼネラルマネージャーであるグラハム・ハッチスからクロムデールにあるバルメナック蒸留所を管理するという又とない提案を受けた。 グランタウン=オン=スペイとアヴォン橋の間に位置する蒸留所はA95のすぐ東のクロムデールの丘陵地帯のひと里離れた場所で一時休止に状態あった。 1997年には、近代化のほぼ受けていない伝統的な蒸留所であるバルメナックをインバーハウス社が買収した。 驚いたことに、それをオートメーション化したり、古い機器を交換したりする事はインバーハウスの予定にはなかった。 むしろ、彼らは古いウォッシュバックとスチルの美しさに見惚れて購入し、その美しさを理解してくれるマネージャーを求めていた。 彼らはバルメナックの復活を望んでおり、それを行う請負人が必要であった。 操業当初から、マルコムとバルメナックの施設は相性が良かった。 彼自身の経験やトレーニングも伝統的な手法に基づいて身につけてきたからである。 彼は1966年にグレン・グラントの樽職人として働き、蒸留所のすべての仕事と責任を学んできた。彼はクーパー、ブリュワー、蒸留技師、マネージャーとして進歩してきた。彼はキャリアの中で、20世紀初頭からある伝統に基づいたプロセスから、技術と訓練に基づいた流行にのったプロセスの両方を見てきた。 そして、最も重要なことに、彼は双方の利点を生かす道を選んだのである。 バルメナックへのデニス・マルコムの関心は単なる専門家としてのものだけでなく、個人的なものも含まれていた。 マルコムの妻は、バルメナックの創始者であるジェームス・マクレガーの玄孫にあたる。クロムデールヒルズからの眺めはマクレガー氏が丘の向こう側に農家や蒸留所を作った時代と変わらないのである。 この地域は、クロムデールヒルズが提供する豊富な水源や、人目を避けられる場所が多く存在することによって不法なスチルや密輸の温床となっていた。 他の多くの蒸留所と同様に、バルメナックは1823年の酒税法改正に続き1824年に正式に設立されたものとして記載されている。 蒸留所は1922年まで家族経営での操業が続けられたが、スコットランドの3つのブレンド会社に買収された後、1930年にスコティッシュ・モルトディスティラリー社(SMD)によって買収。最終的にはディスティラリーズカンパニーリミテッド社(DCL)とユナイテッドディスティラリー社(UD)の手に渡り、1993年6月に一時休止状態とされたが1997年にインバーハウス社によって買収され1998年3月にウイスキーの生産を開始した。 インバーハウス社が蒸留を復活させた時にバルメナックを含む5つの蒸留所のゼネラルマネージャーの地位をバルメナックにおかれた。 バルメナックのGMであったグラハム・マクウィリアム氏と、彼が管理していた5つの蒸留所について話し合っていた際、マクウィリアム氏はバルメナックに再訪し、新蒸留所マネージャーであるデニス・マルコムに会うことを強く勧めてきた。 私はマクウィリアムが理由なく提案をしないことを知っていたので、クロムデールを離れ、町を越えてバルメナック蒸留所のある丘の方向へと向かった。 蒸留所はクロムデールの川辺にある低地の牧草地の真ん中に存在し、その場所では、密輸の歴史に出てくるような人々や、出来事を簡単に想像することができる。 主要道路や村から隔離された、静かで、誰にも邪魔されることなく仕事ができる場所にある。 蒸留所は私が覚えていたままの形であったが、なにか異なった雰囲気を持っていた。 そこには私が想起できていなかった活力があったのである。 19世紀の建物には、50年前の施設がそのまま残っており、その場所はきれいに整備され新鮮な塗装が施されて清潔に保たれていた。 デニス・マルコムはバルメナックに熱意と心を動かされ、それを“楽しいタイムカプセル”として人々に伝えたいと願っている。 彼は長い経験の中で、「ウイスキーを作るのは機械ではなく、人だと」と捉えている。バルメナックはどこよりもそれを明白に理解できる。 彼らはウイスキーだけではなくその場所も作り上げているのだ。 蒸留所の労働者は生産のすべてのプロセスを知り、必要に応じて人員を活用することができる。彼らは製品の出来上がりだけではなく、そこで働く人々の誇りを明確に反映するその場所の維持と外観に責任をもっている。 時間のかかるプロセスは、マッシュルームでも取り入れられている。 長年使用されているポルテウス製のミルで粉砕された穀物が、銅製のドームで覆われた古典的な鋳鉄製のマッシュタンに注がれる。 バルメナックでのマッシングはコンピュータ化されたプロセスではなく、蒸留所の人々の注意と判断を必要とする。大麦からの砂糖の重要な抽出は、3つの異なる水の適切で安定した温度を維持するため、古いバルブと温度計を注意深く調整して行われる。そして、マッシュマンが排水する際、彼は目と経験に基づいて、取り除かれる水の速度を調整する。あまりにも速い場合、砂糖は穀物に残され、逆に遅い場合は水は酵母の追加に向かない冷たさになってしまう。 そこで作られたウォートは、オレゴンパインのウォッシュバックで発酵させるためにタンルームに移動される。 多くの蒸留業者は、より新しいステンレススチールのウォッシュバックが清掃の容易さから作業効率に貢献することを認識しているが、木製のウォッシュバックがより良い発酵を提供すると感じている。温度は木製のウォッシュバックではゆっくりとピークを迎えてから平坦になっていくが、ステンレス鋼の温度は急激にピークに達してから低下する。 木製発酵槽はより多くの注意を必要とし、高い清潔製を維持するための労働を要するが、マルコムは温度をより調節できる木材の方を好んでいる。 マルコムは、良好な発酵の鍵は一貫性にあり、それは蒸留所の人々の能力に頼るしかないと認めているのだ。 発酵が完了すると、酸っぱいビールと類似したウォッシュがそのウイスキーの風味を形成する、蒸留にまわされるためスチルハウスに移動される。 アルフレッド・バーナードは、1887年にバルメナックのスチルを「絵に描いたような古いポットスチル」として説明している。 バーナードと同じように、現代の訪問者はスチルハウスに入り、ギャラリーからそれを見ることができる。 スチルにある印象的な襟は、1977年にクイーンエリザベスのシルバージュビリーを記念してエッチングされた彫刻が施され、ウォッシュスチルの1つに飾られている。 それは蒸留所が25年以上前に依頼し、作らせたものでシルバージュビリーの一環としてハイドパークに展示されていた。 その後、DCLがバルメナックにスチルを導入した際に、襟は外され歴史に残る小さなパーツは忘れ去られてしまっていた。しかし、バルメナックの現チームが放置された襟を倉庫で見つけ、そこに刻まれた文字がもう一度見やすくなるように磨きなおした。 そして2002年のエリザベス女王のゴールデン・ジュビリーに合わせてそれを元通りに戻し、バルメナックの25年の限定ボトルのリリースとともに祝われた。 この特別なスチルに復元された襟は、スチルハウスの床に横並びなるかなり小さめのスチルの中から他のものと見分ける唯一の特徴になっている。 銅製のスチルの6つはすべて、鋭い角度の肩の上にボイルボールと背の高いネックを持ち、より多くの逆流を可能にする。 長いネックとボイルボールが重い蒸気をスチルに戻し、軽い蒸気だけがラインアームに移動する仕組みとなっている。 最も興味深いことに、バルメナックは、他の多くの蒸留所で使用されているコンデンサーではなく、銅式ワームの使用を続けている。 このワームは、クロムデールの小川からの冷たい水の浴槽で直径約14インチの先細ったワームが約100メートルの長さで巻いてある。それが直径約3インチの管でスチルとつながっており、ワームタブの底面に流れ出てくる。 多くの蒸留者たちは、蒸気をウイスキーに凝縮させるためにワームを使用することで、銅との接触を長くし、蒸留をゆっくりと引き出すと感じている。 しかし、バルメナックだけは過去とその伝統を尊重し、蒸留所を囲む丘の中にある小さなスチルとワームタブを隠した密輸業者の亡霊たちに敬意を払っていることを感じることができる。 銅製のワームから滴り落ちるウイスキーはリフィルのシェリーとバーボン樽で熟成される。そして、すべての樽充填と熟成は同じ場所で行われる。 ウイスキーを成熟のために、他の倉庫に輸送するためのトラックは必要としない。 すべてのバルメナックのウイスキーは、それが蒸留された場所にある土床の倉庫の中で熟成される。 長期に渡る検証で、ウイスキーは成熟する場所の特性を引き継ぎ、バルメナックの風味形成に貢献していると考えられている。 バルメナックのプロセスが古い伝統に従う限り、倉庫には他のどの場所よりも昔の習慣と革新を組み合わせたものが保管されていると言える。 デニス・マルコムはバルメナックで伝統的な技術の保持を決心したが、彼は革新を恐たり逆らうこともしない。 倉庫作業員は、バーコードを使用せず、蒸留酒の名前と蒸留年を各樽のヘッドに刻印している。これは、誰もがこの古い方法を維持するのが良いと考えるからである。 そして倉庫を明るくするという理由で、すべてのカスクヘッドは黒ではなく白く塗られる。 綿密に調べてみると、一連の目印がそれぞれの樽板に印が付けられている。 蒸留所は樽を廃棄するまでに数回再利用する。倉庫で空になった樽を補充するたびに、最初のフィル、2番目のフィルまたその後のフィルであることを見分けるためにカスクヘッドを塗り直すという。 残念なことに、各蒸留所は異なる色の系列を使用しているため、蒸留所の作業員は、自身の蒸留所で使用したものでない限り、その樽の歴史を知ることは不可能である。 バルメナックでは、労働者がそれを補充するたびに注ぎ口のある樽板(最後に交換されたもの)にパンチマークを表示する。 5つのインデントがカスクにマークされると、スラッシュがパンチマークを分割し、カスクは再度炭化されて、マーキングシステムが次の樽板から始まる。 重要なのは、マルコムによって開発されたこの追跡プロセスが、インバーハウスの5つの蒸留所すべてで使用されていることである。 バルメナックで熟成中の何千もの樽は、将来もっと容易に利用できるようになるであろう。 インバーハウスは27年もののバルメナックをリリースした。 より軽いシェリーフレーバーによって、ラズベリーやダイオウなどの夏の果物、バニラ、アニスを含む他のフレーバーをひろいやすくなっている。 バルメナックッで働く人々はインバーハウスによって蒸留された最初のウイスキーがその10年の熟成に達する記念日を心待ちにしている。 その記念日は木製のウォッシュバック、銅製のワームそして古い弁やゲージを注意深く見てきた労働者の技能で「昔ながらの方法」で作ってきた確かな努力の集大成となるであろう。 ここでは誰もが伝統的な方法を守り、色あせていたはずのそのウイスキーをもう一度輝かせることに満足と喜びを持っています。 彼らは昔から伝わる蒸留プロセスを理解しており、バルメナックの将来の責務は過去を保存することにあると理解している。 ともに色々な話を済ませたあとデニス・マルコムは倉庫を閉じた。 そして蒸留所を見渡しながら、「この場所は空想的ではないが、夜は火のように輝いている。そして蒸留所は古くて信頼できる。それが品質だ」と誇らしく語った。

1824
稼働中
Cromdale, PH26 3PF
スペイサイド