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タムデュー

ソサエティ初ボトリング 1983年
大麦の選別と麦芽化はウイスキーの製造において不可欠である。 しかし、今では非常に少ない蒸留所でのみこの作業を手作業で行っている。 その一つをアンソニー・トゥルーンは訪ねた。 スコッチモルトウイスキーの本当の愛好家はすべて、そのスピリッツがどのように作られているかを知っているであろう。 しかし、ここでは、知らない人のために短く説明しておこう。 ウイスキーの原料は大麦、水、酵母という3つの材料で出来ている。 大麦は水に浸されて発芽し、発芽は加熱によって止められる。そして、その麦芽は磨かれ、粉砕され、水が加えられて「マッシュ(液状化された麦のおかゆ)」が作られる。そこに酵母を加えて発酵させる。これが完了すると、液体は蒸留され、カスクに貯蔵されて熟成される。 当然のことだが、プロセスのあらゆる段階で、モルトウイスキーをすべてそれぞれの個性的なものにすることが出来る。 1950年頃まで、ほとんどすべてのモルトウイスキー蒸留所は、穀物の購入からスピリッツの蒸留、倉庫の樽で眠るまでの全工程を敷地内で行っていた。 伝統的な麦芽の製造工程は、浸透した大麦が発芽するよう、石の床に1フィートの高さほど敷きつめて行う、非常に繊細で面倒なものであった。 これには最大14日かかるという。  蒸留所の労働者たちは木製のシャベルを使用し、何度もこれを裏返されなければならなかった。これは、発芽を停止させる際の穀物の温度の上昇をより低いレベルで制御するためだった。 不幸にも、この作業の繰り返しは、『モンキーショルダー』と呼ばれる筋肉の疲労状態を労働者に与えた。皮肉なことにこれは今日で言う、パソコンなどで長時間仕事をしている人々の肩の痛みと同じようなものである。 しかし、40年前、モルトウイスキー蒸留の作業工程を変えた2つの大きな事柄がほぼ同時に起こった。 その一つは大麦の乾燥のプロセスを機械化した19世紀のフランスの発明品である「サラディンボックス」の導入。 もうひとつは、大麦は製麦工場で(通常は回転式ドラムで)麦芽化され、乾燥されてマッシュの準備が整った状態で蒸留所に送られるようになったことだ。 1897年に設立されたスペイサイドのタムデュー-グレンリベット蒸留所はこれらの変化に取り残されることとなった。サラディンボックスを初めて導入したのはタムデューで、麦芽容量を大幅に増やし、最終的に新しいキルンを建て、新しいスチルを導入し、生産量は3倍まで伸びた。 他の蒸留所の大部分は、サラディンボックスの導入を考えていたかもしれないが、大規模な製麦工場の台頭によって求めていたモルトの入手に至ることができた。その結果、ゲール語で「小さな暗い丘」を意味するタムデューは、この興味深いプロセスを使用する唯一のモルトウイスキー蒸留所となった。 いくつかの蒸留所はまだフロアモルティングを行っている。 グレンドロナックとバルベニーでは一部をフロアモルティングによってまかなっている。しかしハイランドパーク、ボウモア、グレンギリー、そしておそらくアードモアでは、フロアモルティングは大きな規模で行われている。 サラディンボックスは、網目状の床を備えたコンクリートの細長いプールのような箱型のもので、浸漬した大麦を4フィート以上の深さに注ぎ、空気を床から送って温度を管理する。 最初の24時間は、発芽した穀粒がそのまま残される。しかし、攪拌の工程の中で熱の蓄積を消散させなければならない。 これは穀物の底部分まで届く、6つの連なった平らな刃の大きなコルクスクリューに似た機械の回転によって行われる。 それらはゆっくりと回転し、下の穀物を蓄積の上部まで持ち上げ、1時間ほどかけて箱の一端からもう一端までゆっくりと移動する。 4日間にわたって、8時間ごとに穀粒の回転がモルトマンのさじ加減によって繰り返される。 その後、キルンに運ばれる準備が整った麦芽は、乾燥のサラディンボックスからホースを通して吸い上げられ、乾燥室に送り込まれ18時間かけて乾燥される。 切り出されたブロック状のピート6カット分によって加熱された空気にピート由来の煙が加わり、モルティな風味にそれが足される。 そしてスピリッツは樽、ボトルを経てあなたのグラスまで旅を続ける。 各サラディンボックスには二つのタンク分の穀物が満たされる。 そして2つ分のサラディンボックが窯を満たす。 44トンの大麦は麦芽を37トン作る。 これらのプロセスはすべてタムデューで実施されるため、蒸留所独自の下ごしらえの材料を完全にコントロールできる。 これは、米食いムシであるゾウムシとその友人、ノコギリヒラタムシという害虫の予防にとって非常に有効である。それらが見つかった場合、大麦のほとんどは廃棄される。 - 統計によると、25トンの麦芽の中には約40,000匹もの害虫が潜んでいる可能性があるからだ。 スペイサイドのこの地域への鉄道が閉鎖されたとき、タムデューによって駅は購入され、自社のビジターセンターに変換された。 駅の名前が近くの「ライバル」蒸留所のノッカンドゥであったため、駅のプラットホーム上の新しいボードは、現在しっかりとタムデューと刻まれている。

1896
稼働中
Knockando, AB38 7RP
スペイサイド