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タリスカー

ソサエティ初ボトリング 1983年
スカイ島のスピリッツ

カーボストにあるタリスカー蒸留所のマネージャーのオフィスに座り、太陽がハーポート湖の岸からゆっくりと動くのを見てください。
そうすれば、ここがいかに数奇な運命を辿ってきた蒸留所であるか理解するのは難しくないだろう。
太陽が照らし出す湾岸に沿って、複雑に入り組んだ最も険しい入江が浮かび上がってくる。
そして、カーボストからドライノックの丘にある主要道路まで車で走ると、
湖の周辺にはところどころ耕さたれたのち、見捨てられた土地が見受けられる。
そこには、この土地に野望と希望を持ち、タリスカー蒸留所の創業にその尽力を注いだ男、ヒュー・マカスキルの人生の軌跡と、19世紀初頭の冷徹な社会経済がそれを阻んでしまった衰退の成り行きを見て取れるのだ。

カーボスト方面に戻り、村へと続く急な狭い道路の先を左折し、カーボストの小川の滝を渡る。
この激しく流れる小川がタリスカーの所有する大きなワームタブの冷却水として使われているがマネージャーのマイク・コープランドが言うには、毎年夏になると干上がってしまうという。

気まぐれなスカイ島の天気は、その土地の人々と同じで簡単に信用してはいけない。 

タリスカー川が、オライド山の急な坂道を下り、左に抜けて険しい崖横からタリスカー湾に突き当たるように流れ出す。

そこにまるで時空を超えたかのように、ここでは息を殺して隔離されたタリスカーハウスがある。

長い間水資源の不安定さに悩まされてきたその近辺の土地を、この蒸留所の所有者であったヒューが必ずしも始めに手にしたわけではない。

スカイ島の支配者であったドナルド・マクレオッドは、1818年にラクラン・マクリーンに土地を貸し出した。その結果、土地の大部分から人々を追い払い、羊毛産業を盛んにした。
ヒュー・マカスキルはその後、1825年にタリスカーの土地の使用権を引き継いだ。
蒸留所の創業が彼の戦略の重要な部分であった。それは、土地に残っている人々に雇用を創出し、耕作のために捨てられていた土地に大麦の生産の市場も提供した。

1830年に築かれたカーボストにあるロッホ・ハーポートの海岸に出来た居住区の多くの人々を追い払ったことで、教区教会の元司教がこの土地は呪われていると発言し、マカスキルは、タリスカーの地ではなかなか思うように事業を進めることができなかったようである。

1840年に、マカスキルは出身であるマル島の峠の土地とカルガリーキャッスルを相続し、彼の興味の対象はそちらに向いてしまった。
タリスカーハウスでの生活はエレガントで快適だったが、マカスキルは1846年にそこから近くのブラッカデールにあるルダ・アン・ダネインに家族と移った。
その3年後、彼はタリスカーの土地の使用権のリースを断念した。そして1848年に自身が弟のケネスと友人の醸造家であるアーチボルト・シンクレアと経営していた蒸留所を手放した。(シンクレアーは1860年代後半に死ぬまで醸造家を続けた)
ケネス・マカスキルは1854年に亡くなったが、聞く所によると、彼が蒸留所の事業主となっており、1374 ポンド3セント 2ダイムの価値があるウイスキーの在庫と蒸留設備、それと買掛金の259ポンド 12sセント8ダイムを残していた。
これを見る限り、彼らは財政的に困難であったのかもしれない。
一方創業者のヒュー・マカスキルが1863年に亡くなったとき、彼の遺産は意外なことに少なかった。(たった2713ポンド4セント1ダイム)
そしてすでに蒸留所に対する興味も全く持っていなかったという。
蒸留所と土地のリースはスコットランド北部銀行に移され、一般業務の管理はそこのマネージャー、ジャック・ウェストランドに一任された。

その後ドナルド・マクリーンが1857年にスコットランド北部銀行から蒸留所を500ポンドで購入した。彼はバラ島の農業者として自分自身を述べているが、ヒュー・マカスキルの娘であるノーマナ・ヨハンナ・マクレオド・トルミーと結婚していたのである。
マクリーンは蒸留所の建物と工場を改良するのに600ポンドを費やした(1854年のケネス・マカスキルの死後、蒸留所が休止していた可能性があるため)。
そして1859年から蒸留所の土地を31年間リースした。

彼は重大な資本問題に加えて、長引くバラ島の財産をめぐる訴訟が長期化していたにもかかわらず、1860年の収穫時には蒸留を開始した。
その結果、重大な損失をまねいた。資本が不足している状況で蒸留所を通常通り稼働させることはかなり難しかったのだ。資金の入手のため、グラスゴーの代理店に大量のウイスキーを直売で売るよりかなり安い価格で売ることを余儀なくされた。
彼はまた、1857年以来、従業員人たちに対する「賃金」の負担も負っていたのだ。

再開から5年目にあたる1863年11月5日、蒸留所は断続的にしか創業できず、マクリーンの蒸留所は責務者により差し押さえとなった。
蒸留所は、マクリーンの後見人たちによって最初に£700で売りにされたがその後1864年4月に£500で売却された。

マクリーンの後見人たちは、倒産後も、マクリーン雇っていたようだ。
1865年、マクリーンはタリスカーウイスキーの代理人にグラスゴーのジョン・アンダーソンを任命した。
翌年、アンダーソンは蒸留所の経営を引き継ぎ 1867年に蒸留所を購入した。
しかし蒸留所はすでに瀕死の状態であった。ほぼ廃墟と化しており、どの蒸留器もとても使えるような状態ではなかった。
アンダーソンはすぐに建物の改良作業に着手した。
蒸留所の拡張と設備の復旧に5300ポンドを費やしたという。
彼はまた、民間市場でタリスカーの株を買い戻すことに尽力した。
そして その資金は、今日までの蒸留所のために費やされた。この古いウイスキーの素晴らしい個性は市場でのウイスキーの需要を見事に引き出すことに役立ったのである。
タリスカーは確かにその時代で品質の高いウイスキーとして人気を集めていた。

アンダーソンの楽観的経営は、支出が常に収入より先行している事実をうやむやにしていた。そして英国産大麦の購入(過去数年間スコットランド産大麦が不作であり、1877年と1878年はとくに悪かったため)はさらなる損失をもたらし、アンダーソンは新しいウイスキーの在庫を使って借金を清算しようとした。
蒸留所の生産能力を年間約20,000ガロンから30,000ガロンに増やし、市場で新しいウイスキーを販売することで債務をクリアできると確信していたのだ。
彼は「ウイスキーは市場でより良い評判を得ているし、タリスカーはより良い価値をもたらす」と確信していた。

しかし物事はどんどん悪い方へ進んだ。アンダーソンの経営管理能力の不足と、姿をくらました書記官(病気によって目が見えず、書類が読めなかったと後に主張した)によって、小切手は十分ではない金額で書かれ、企業は受け取っていないウイスキーの代金を請求された。(作られてさえいなかったという)

1879年2月に破産したとき、アンダーソンは蒸留所に6500ポンドという楽観的な価値を付けた。
しかし彼の後見人は2500ポンドしか価値をつけなかった。
皮肉なことにマカスキルが蒸留所を建設した主な理由と、アンダーソンが負った主な負債の原因は、同じく穀物の流通であった。

その後、蒸留所は50年足らずで、その存在の理論的根拠よりもスピリッツのそのものの品質の向上に基盤を置くことで急成長し、生き残ることができた。
そして同時にマネージメントの徹底管理も行われた。
スペイサイドの蒸留技師であったアレキサンダー・グリゴールはオーストラリア、ニュージーランド、セイロン島、南アフリカなどにタリスカーの市場を築いた。
そして、トーマス・マッケンジー、(ダルユーイン蒸留所の創始者)が買収合併し、ダルユーン-タリスカーディスティラーズとなって他者との競合の中でタリスカーの市場価値を高めていった。
ウイスキーオークションでアンティークのタリスカーがしばしば登場することが証明するように、タリスカーは今世紀初頭までに国内で最大の販売を誇ったウイスキーの1つでもあった。

その強烈なアロマと胡椒のような味わい、スカイ島産のウイスキーであることの本質を思い起こさせるウイスキー。
他には絶対に真似することが出来ないこの素晴らしいスピリッツを誰に感謝すればよいだろうか?
蒸留所の現在の所有者だろうか?マッケンジーか?グリゴール?アンダーソンか?マクリーンなのか?それともヒュー・マカスキルとその兄弟だろうか?
あるいは、19世紀に貧しい生活の中であくせくと土地を耕した何百人もの魂たちか?それともその努力によって今なお顕在する雄大な土地だろうか?
スカイ島へ訪問をし、あなた自身で決めてほしい。

1830
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Carbost, IV47 8SR
アイランズ