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アイルオブアラン

ドラム・カム・トゥルー  自分の蒸留所を持ちたい、という夢を持ったことはあるだろうか? 一から自分のウイスキーを作り上げたい、と思ったことはあるだろうか? それはウイスキーを愛する人間ならば、一度は思い描くロマンに溢れたアイデアである。 しかしT・Sエリオット(イギリスの詩人)が私たちに教えるように、すべての大望には様々な障害が存在する。 一つ目の障害は、資金繰りである。小さな蒸留所であっても、大体1,500万ポンドの費用を要する。そしてスピリッツが最低でも3年、平均的にシングルモルトとして販売するためには、10年くらい経たないと。投資に比例したお金は帰ってこない。 もう一つの障害は品質である。どのような場所で、どのような機材を使って、どう製造し、どう熟成すれば、人々に好まれるウイスキーが作れるかという確証もない。 そして最後の障害は、販売である。 一体、誰が買ってくれるのか、ブレンドに使用されるウイスキーとして販売できるだろうか?ブレンダーにはすでに存在する蒸留所のウイスキーが供給されている。 シングルモルトとして販売出来るに至っても、広告には莫大な費用と、時間が掛かる。 これらの障害はハロルド・カーリーがシングルモルトを作るという大きな野望に対しても立ちはだかったが、彼は見事にそれらを払拭してみせた。 その大きな理由として、彼が、経験豊かな蒸留技師であったことが挙げられる。 彼は人生のすべてをウイスキー産業に捧げてきた、そしてシーバスリーガルや、ハウス・オブ・キャンベルの代表取締役まで務めるまでになっていた。 このような事実は、彼の融資担当の銀行員はすでに知っていたことであろう。 アラン島はかつて、ウイスキー産業が盛んであり、18世紀その島で作られたウイスキーは、“アランウォーター”という愛称で広く知られ、有名なグレンリベットと肩を並べるほどであったという。 密造は島全体に広がっていた。:この島には様々な密造者たちと収税吏による壮絶な戦いの記録が残されている。 1820年代には密造者たちも、合法的にウイスキーの製造を始めるという風潮の追い風によって、近代的なウイスキーのトレードが盛んになっていった。 近代的なトレードにはちょっとした問題もあった。島という土地柄、メインランドからの良質な大麦の入手や、ウイスキーの流通といった問題で乗り越えることが難しかったのだ。 ただ一つの蒸留所が1824年にライセンスを取得し、島の南東のラグで操業を続けた。しかしその四年後には破綻し、そのまた7年後には消滅してしまった。 1992年にハロルド・カーリーは、アラン島の知人にアラン島で蒸留所を立てることを提案された。 この時代のウイスキー産業では、80年代に始まった閉鎖の連鎖が未だ続いており、1993年にはUD社が4つの蒸留所を閉鎖し、二年後にはホワイトマッカイ社がまた4つ閉鎖していた。そのため彼は疑心暗鬼にならざるを得なかった。 しかしこの島でのウイスキー造りは、自然環境の恩恵という利点も多く持っている。 そしてハイランドとローランドの中央に位置し、アイラ島やキャンベルタウンにも隣接しているため、どの地域の特性を持ったウイスキーが、出来上がるのか興味深い点も考慮された。 そして何と言っても素晴らしい水の存在と、交通の不便さをもろともしない大勢の観光客の来訪を獲得できていたことが、彼の背中を押した。 蒸留所の相次ぐ閉鎖の背景には、ブレンデッドウイスキーのアメリカや家庭消費の市場縮小に起因したが、シングルモルトとしての需要は年々高まっていた。 そうしてハロルドの家族や友人たちの融資の助けを経て、(蒸留所建築の費用は1200万ポンドになったが、すべて彼らの融資で賄われた。) ハロルドとその息子たちこの事業に参加して、意見を出し合い、素晴らしいアイデアを考え出した。 それは1998年には、5ケースのロックランザ(ブレンデッドウイスキー)と2001年にはアランシングルモルトウイスキーを5ケース。 またアランウイスキーが蒸留所から販売されるごとに1ケース80ポンドの保証が盛り込まれた融資者債務証書を一口450ポンドで発行することだった。 これは18ヶ月の間募集され、2500の債務証書の販売にこぎつけたのだ。 ハロルドは、品質向上のため島にある8箇所の水質調査を行い、完全な水源の確保に成功した。その水は柔らかく、冷たく、丘からまっすぐに流れているイーソンビオラック川のもので、ロッホ・ナ・デヴィーという湖を水源とした水は、ピート層や赤い花崗岩を通り、ロックランザの海に流れ出るものであると蒸留所のマネージャーのゴードン・ミッチェル氏が教えてくれた。 ロックランザは島の中で一番可愛らしい村である。 アラン島の南側に位置し、急勾配な丘にほとんど集落もなく、写真映えするような荒廃したお城が、深い海の中央部に浮かんでいる。 蒸留所はその村から北東に少し離れた場所に建てられているが、港の美しい景観を損なわないように粗塗りされた壁や、粘板岩の屋根を使い、味のある建物で非常に美しくコンパクトに作られている。 彼のウイスキーへの探求は、伝統を尊重したものになっている。 4つのウォッシュバックはダフタウンのローワン社のオレゴンパイン製のもので、フェインツ、スピリッツレシーバーも同社製である。 彼の2つの蒸留釜は小さい(ウォッシュスチル7,100L、スピリットスチル4,300L)オニオン型で、非常に長いネック(16フィート)を持つ。 どちらもスチーム加熱方式のもので、ローゼスにあるフォーサイス社製のものを使用している。 二つの熟成庫は他の施設と同じように蒸留所の規模に合わせて建てられ、伝統的な低いダンネージ式で土床と粘板岩の屋根を持っている。 これが、ロックランザの風の強い気候による利点を生かしている。 4段のラックには約1200樽が保管でき、バット、ホグスヘッド、アメリカンバレルなど様々な樽が用いられて、スピリッツの特性にあったものを選定できるようにしている。 麦芽化された大麦はマレイにあるライック社製のものを、週約25トン利用し、船によって毎週運び込まれる。 それによって約10,000リットルのアルコールが生産される。 蒸留所のマネージャーゴードン・ミッチェル氏はロッホサイド蒸留所のマネージャーを務めていたこともあり、アイルランドのクーリー蒸留所でも技術の研鑽に勤しんだ。 彼は来年のビジターセンターの管理のために、新しく4人のスタッフを雇用した。 販売やマーケティング、そして経営管理の仕事は、ハロルドの息子であるアンドリューとポールが請負っている。 昨年の夏の初めに製造に必要なものすべてが出揃い、誰も予想出来ないほどに高品質なスピリッツが取り出された。 6月の試験操業を経て、ウイスキーライターのジムマーレイや、シーバス社のチーフブレンダー、ジミー・ラングにニューメイクスピリッツの検査確認の依頼をし、彼らの手に渡ったが、それは想像を遥かに上回る素晴らしい品質のものが仕上がっていたという。 デリケートで、ペッパリーで甘みのある素晴らしいニューメイクスピリッツは高い賞賛を受けた。また甘くフルボディで、うっとりするようなモルティなアロマは熟成を経て驚くほどに良いものとなっていた。 1995年8月17日にアラン蒸留所は正式にオープンした。 オープニングには約100人もの人が集まり、このためだけに海を渡ってきた人も多かったという。 ハロルドは毎日のように、株や債券の申し込みの対応におわれ、世界中からこの新しい素晴らしいウイスキーの購入希望者の手紙が届くという。 この結果を見てハロルドの挑戦は完全に成功であったと言えることだろう。 それには彼の勇気と、彼の友人や家族のサポートなしでは成し得なかった。 ハロルドや彼のすべてのこのプロジェクトに関係する人々に我々から心からの祝福を贈りたいと思う。 ジョークになってしまうことを先に謝っておくが、“ドラム・カム・トゥルー”

1995
稼働中
Lochranza, KA27 8HJ
アイランズ