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グレンキンチー

ソサエティ初ボトリング 1985年
エジンバラガーデンの宝石 活気ある東ロージアンの近郷の窪地から、控えめに突き出た煙突が見える。煉瓦造りのその建物は、あなたがグレンキンチーの崇拝者であり、ペンケイトランドへの巡礼中の一人でなければ、そこが蒸留所であると分かるはずがない。 ウシュクベーハを巡る、伝説やロマンスによって構成された物語に出てくる密輸業者の洞窟や、遠く離れた山道の岩場の風景もない。泥炭で黒く濁った川さえもそこには存在しない。エジンバラの中心部からわずか15マイルの距離にあり、綺麗に整えられた垣根と素朴な家屋そして整備された土手のある美しい牧場地帯にその蒸留所はある。魔法やミステリーなんかの空想的な力は存在しないが、ウイスキー作りに精通した男たちの、努力によって守られてきた確固とした技術がそこにはある。 この地はもともとアーサー王の義理の兄、ロットの王国であり、彼の名前をとってロージアンと名付けられた。そして彼は、蒸留所からさほど遠くない、トラプラインローの丘の頂上に宮廷を建てたとされる。ここの土地は2000年にわたり農作地帯として繁栄し、英国で最も優れた大麦のいくつかを栽培している。ロバート・バーンズは「これまでに見た中で最も輝かしいコーン畑」と述べた。「スコットランドの畜産の父」として知られるジョン・コックスバーン が18世紀初頭、この地に農業知識向上学会を設立した。この大層な名前に恥じることなく、彼の知識や、その研究に基づいた革命的な農法の成果を見出し、東ロージアンを世界の農業の先駆けの地位までに発展させた。また、彼がジャガイモとカブをスコットランドに紹介した人物であるともされる。この農業の街、東ロージアンで、いつ、初めてウイスキーが生産されたかは定かにはなっていない。1494年の王室財務局の記録が、最初の記録として残されてはいるが、蒸留はそれより以前からすでに広まっていた。 大麦を現金化する明朗な手段である蒸留は、農業の内在的なサイクルの一部だったのだ。ウイスキーとして消費された穀物はその後、牛を肥育させるためにも使用された。 しかし、英国とスコットランドの合併の1655年以降、理論的には、ほぼ実在していたウイスキー税が実際に施行された。 農家に対して納税の義務を強制しただけではなく、その徴税がイギリスの名において行われていたのだ。スコットランドの農民たちが黙って従うはずがない。ロージアンでの密造は、必然的に起こっていったのである。徴税が施行されてから70年後の1777年にエジンバラ近郊には、認可を受けた蒸留所が8つあり、400ほどの違法なものも発見された。 1837年にグレンキンチーで蒸留所を運営する許可が地元の農夫、ジョージとジョン・レートの兄弟に与えられた。彼らは、1825年以降ミルトンと呼ばれる地域で、蒸留所を所有していたことが知られており、グレンキンチーという新しい名前を使用して同じ事業を引き継いだと考えられる。(“キンチー”は周囲の土地を所有していた。ノルマン人の名前Quinceyの訛り) グレンキンチーは自給自足によるウイスキー製造の模範であった。 兄弟は大麦を栽培し、それらを麦芽にした。そしてキンチーの小川から汲み出した水を利用して、マッシンッグ(糖化)を行い、モルトウイスキーを作った。牛や馬は ウイスキー製造の際に出る麦芽の搾りかす(ドラフ)によって育てられた。 グレンキンチーの蒸留所と、この土地の関係は硬い絆で結ばれていた。しかし現在ではそれは薄れてきている。85エーカーの農場は、すでに貸し出されてしまっている。 長年にわたり蒸留所のマネージャーを務めるWJマクファーソンはその土地を耕作し、アバディーンアンガス牛畜産でキンチーを有名にした。 体格のいいクライズデール(足首の毛が長い重輓馬)はもう飼われていないが、運営者の一人であるヘクター・マクドナルドは、父親と同じくして幼少期から馬の世話係として働いた。その馬が引く大過馬車は、ウイスキーの樽を乗せ、サルトウン駅までの約1マイルほどの距離を今なお現存する太鼓橋を通って運び、その帰路には大麦や石炭を積んで戻ってくるのである。マクドナルドはその大過馬車が都市部の生活にも適切な需要があると考え、グラスゴーに赴き、その結果、ブキャナンの保税倉庫で使用されるようになった。しかし、それらは夏の休暇時期にはグレンキンチーの緑の畑に戻ってきた。 現在、樽は大型のトラックで運ばれ、アロアにある巨大な併合施設で熟成される。 グレンキンチーが所有する3つの熟成庫はすでにいっぱいになっている。麦芽は蒸留所が指定したレシピに基づいて、ライトリーピテッドに準備された状態でマレイ州のローズアイルからトラックで運ばれる。1968年にフロアモルティングは廃止され、その場所は博物館に改装された。それは世界初のモルトウイスキーの博物館であり、当時のマネージャーであったアリステア・マンローはフロアモルティングの廃止の背景にある、業界の急速な変化を実感し、記憶と機械を記録することの必要性を認識したのである。今年は重要な新しいビジターセンターが開かれる予定である。グレンキンチー蒸留所の建物は全体的にビクトリア朝の佇まいをしている。 1890年、エジンバラ借款団は、兄弟から蒸留所の経営権を引き継ぎ、蒸留所を完全に再構築した。また、労働者のために小さな村を建設し、農場の新鮮な食糧を彼らに供給した。その後、1920年代には、従業員達の手によって整備された緑の芝生が植えられ、それは今もなお綺麗に残されている。蒸留所の所有したコテージは、それほど多くはなかったが、いくつかの家族によって買い取られ、今なおそこに居住している。 1972年、スチルハウスは再建され、スチルの加熱方式はスチームコイルに変換された。1995年には新しいマッシュハウスが建設された。 創業当初の6つのウォッシュバックはまだ現存しており、そのうち2つはオレゴン松、4つはカナダのカラマツ製である。蒸留には2つのポットスチルを使用し、32,000リットルの容量を持つ、ウォッシュスチルは業界でも最大のものになる。伝統的なワームタブのコンデンサーを持ち、その長さは二階建てほどの長さになるという。キンチーバーンから引き出された水を使用していることは今も変わっていない。ラマミュアーの丘から流れでたその水は、豊かな石灰岩堆積物を多く含み、ダイヤモンドのように美しく、ダイヤモンドのように硬い。その水を利用することによってグレンキンチーを、すべてのローランドモルトの中で最もドライなものに仕上げる。この水と、ハイランドよりも晴れやかで乾燥した気候が、グレンキンチーに他のローランドモルトとも全く異なる性格を与えている。軽くて、ドライな酒精によって、麦芽の柔らかい甘さが伝わるのだ。この非常に万能なスタイルをもつウイスキーは、ローランドモルトの特性を生かしており、ブレンダーに愛されている。(グレンキンチーはヘイグ、ディンプルなどのブレンドに使用される)1890年代のブレンデッドウイスキーは、エジンバラとリースの港から出荷され約120カ国で販売された。 エジンバラの繁栄と成長とともに、グレンキンチーの蒸留所も次第に栄えていったが、今では醸造所やワイン商人のエジンバラ借款団の所有となっている。1914年に設立された同社は、5つのローランドモルトウイスキー蒸留所からなるスコティッシュモルトディスティラリー社の1つで、現在はユナイテッドディスティラリー社の一部となっている。現在、この柔らかく、輪郭の取れたウイスキーは、ユナイテッドディスティラー社のクラシックモルトのローランド代表として採用され「エディンバラモルト」として販売されている。 現在もフル稼働しており、今年後半の新しいビジターセンターの開設で年に約6万人の訪問者が訪れると見込まれている。

1837
稼働中
Pencaitland, EH34 5ET
ローランド