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グレンスコシア

ソサエティ初ボトリング 1991年
キャンベルタウンの蒸留所:スプリングバンクとグレンスコシア スコッチウイスキーの卓越した品質と多様性を最初に見出したアルフレッド・バーナードは、残念なことにロンドンに住む英国人だった。 彼は、彼の代表作である“英国のウイスキー蒸留所”執筆のための調査で1885年〜6年にかけてスコットランド、アイルランド、イングランドで認可されたウイスキー蒸留所を訪れた。 アルフレッドの熱意と、献身は大変なものだったに違いない。 鉄道と蒸気船を乗り継ぎ、東ターバートについてから、またさらに6時間かけて馬車でキンタイア岬の先端近くのキャンベルタウンに到着した。 2週間かけて、彼はハートホテルを拠点に、キャンベルタウンにある21箇所の稼働中の蒸留所を訪れた。 この土地の性質を理解するならば、ポール・マッカートニーの歌のようなロマン主義の音楽を忘れ、とにかく陽気で無責任な盛り場の歌、例えば「キャンベルタウンロッホ、お前がウイスキーだったなら」を聴くといい。 大西洋に長い岬を伸ばすキンタイア半島の経済は、今世紀の大半は不安定なものであったが、常にそうだったわけではない。 1823年に蒸留が合法化されたとき、新しい商業として、ウイスキー蒸留所は、以前より不法な蒸留の巣窟であったキャンベルタウンの町でも急速に育っていった。 アルフレッド・バーナードは、1885年にキャンベルタウンに到着し、町の中心へとつづく一本道の「ロングロウ」を下り、アーガイル、キャンベルタウン、ヘーゼルバーン、スプリングバンク、キンロッホ、ロングロウ、リークラッカンの少なくとも7つの蒸留所を訪ねた。 19世紀の末頃、経済は活況を呈し、蒸留所の所有者たちは町を見下ろすほどの大邸宅を建て、地元の教会に寄付を与えるまでになっていた。 農家や麦芽業者、製粉業者、樽職人だけではなく泥炭の採掘、鉱夫、トレーダー、船員などにも雇用を与えたため、彼らをねたむ者はほとんどいなかった。 この時代の唯一の犠牲者は、数百万ガロンのポットエールが蒸留所から廃棄されたために、ひどい悪臭を放つキャンベルタウンの湖や入り江であった。 スプリングバンクとグレンスコシアはまさにブームの中心であり、1935年まで残った唯一の蒸留所である。ブームの終焉と、ウイスキー市場の暴落には、多くの原因があった。第一次世界大戦からその戦後にかけて、世の中の雰囲気は変わり、節約のムードが高まっていたこと。 またアメリカでは、禁酒法のよりごく僅かな違法取引だけを残してウイスキーの販売をかなり中断したこと。 キャンベルタウンでは1923年にドラムレンブルの炭鉱が枯渇し、蒸留所は安価な燃料の入手が困難となった。彼らが市場での競争力を維持するために切り詰めた状況でウイスキーの生産をしたことで、キャンベルタウンウイスキーは多くのブレンダーがそれらを使用するのをやめたほどにその評判を落とした。 加えて、ウイスキーのトレンドは、鉄道がより活性化していたスペイサイドウイスキーにシフトされた。 ウイスキー産業におけるキャンベルタウンの驚異的な出現のちょうど1世紀後、キャンベルタウンのウイスキーは劇的に、それも悲劇的に、世の流れによって崩壊した。 私の訪問の目的は、スプリングバンクがどう生き残ったかということだけではなく、どうやってウイスキーの代表格まで発展していったのかを知ることであった。 その答えはスコットランドでも最古から続く同族経営にあった。 マネージング・ディレクターを務めるヘドリー・ライトは、1828年に蒸留所を設立したアーチボルド・ミッチェルの一族である。 スプリングバンクでは、ウイスキーの製造において、厳密に伝統的なプロセスを維持することで、会計士の見解にばかり目を向けず、モルト蒸留会社協会やスコッチウイスキー協会の主流から距離をとることができた。 ヘドリーと蒸留所のマネージャーであるフランク・マクハーディは、自身らを、伝統を築いていく素晴らしいスプリングバンクウイスキーを一時あずかる身であると考え、自分たちの代も、しっかりとその国際的な評判を保とうと心に決めている。 フランク・マクハーディは、若かりし頃からアイルランドのブッシュミルズやスプリングバンク蒸留所などの数々の蒸留所で経験を積み、キャリアの最後にスプリングバンク蒸留所に戻ってきたことを喜んだ。 スプリングバンクが30もの消滅したキャンベルタウンの蒸留所の、どこのものよりも、軽いスピリッツであることに加え、品質への徹底したこだわりと的確なマーケティングが、スプリングバンクを1920年代の生存者にした大きな要因だと彼は考えている。 スプリングバンクにとって最悪の時期は、1980年代の不況によって生産が2年間停止した時だった。 現在では年間に10カ月稼働し、容量の50%の生産だが、来年は60%に増加していくという。 フランク・マクハーディは、マーケティング的な観点から、現在保管しているストックから今後10年、12年、21年もののウイスキーを販売していくことによって年間売上高を4%増やしたいと考えている。 現時点では、「スプリングバンク」に加えて、蒸留所では、「ロングロウ」と呼ばれるヘビーピーテッドモルトウイスキーも生産している。 また、興味深いことに1996年のフランク・マクハーディの復帰以来、蒸留所では、「ヘーゼルバーン」(19世紀に存在した蒸留所にちなんで名付けられた)と呼ばれる新しいウイスキーを開発しており、10年もののスプリングバンクの販売も視野にいれている。 スプリングバンクの生産は、伝統に従いフロアモルティングによって手動で攪拌され、72時間の発酵を行う。またチルフィルタリングやカラメルによる着色を一切行わない。 しかし、本当の技術の核は麦芽の蒸留に対するマッチングにあるという。 蒸気コイルに加えて軽油バーナー(それとラメジャー)を備えたウォッシュスチルが1つと、 2つのローワインスチルがある。1つはワームタブ、もう1つはコンデンサーによる冷却を行う。 スプリングバンクの大麦は、泥炭で6時間乾燥され、熱風で30時間乾燥される。 ウォッシュを煮沸してローワインを得て、それを再び沸かしてフェイントを得る。 フェイントの80%とローワインの20%を一緒に沸かしてスピリッツのミドルカットを生み出す2.5回蒸留を行っている。 対照的に、「ロングロウ」は、ピートのみで乾燥された麦芽(フェノール値50ppm)を使用し、通常の2回蒸留が行われる。 「ヘーゼルバーン」の麦芽にはまったくピートを使用していない。 ウォッシュを蒸留してローワインを得て、それをさらに蒸留してフェイントを得る。最後に、フェイントを沸騰させてスピリッツを作り出す3回蒸留を行う。 比較的横道にそれてしまったが、話をグレンスコシアに戻そう。 蒸留所は1832年に設立され、19世紀後半のキャンベルタウンの繁栄にも一役買っていた。 1920年代には、他のほとんどの蒸留所が閉鎖してしまったが、1924年に所有者となったダンカン・マッカラムによって何とか操業を続けられていた。 しかし残念ながら1930年に彼はその後自ら命を絶ったという。 彼はクルーズで出会った人々によって財産を騙し取られたのだという。 スタッフは、蒸留所のドアで首をつったとい、そこには未だ彼の亡霊が現れるという。 また別の人間の話では彼がキャンベルタウンロッホで溺れ死んだという話もある。 彼の死後も蒸留所は生き残り、第二次世界大戦まで様々なオーナーの手によって守られてきた。 90年代だけでも、1994年までギブソン・インターナショナルが所有し、その後 グレン・カトライン・ボンデッド・ウェアハウス社からロッホローモンド蒸留所のサンディ・バロックに所有権が移った。 こういった買収が繰り返されてでも、グレンスコシアは生き残る価値がある蒸留所であるのだ。 それはかつてスコシアロイヤルとオールドコートの2つのブレンデッドウイスキーに使用されていたが、今はどちらも入手できない。 モルトウイスキーはほとんど残っておらず、1984年の閉鎖前に蒸留された8年と14年のものが売られている。 今ではロッホローモンドとスプリングバンクの特別な配慮によって、スプリングバンク蒸留所と、グレンスコシアチームによってスプリングバンクが操業していない数ヶ月の期間に、グレンスコシアのモルトウイスキーをもう一度生産しているという。 彼らは、ヘビーピーテッドシングルモルトを作るために、生産をより丁寧に、より伝統的なプロセスに変化させた。 スコッチ・モルト・ウイスキー・ソサエティは遠い未来のために、新しいスピリッツをポートワインカスクとシェリーカスクに詰めた。 7月のとある日、キャンベルタウンの岬を下ったところで、天気が熟成に及ぼす影響を強く実感させられた。 ロッホファインの空は嵐でこそ、ないにしても灰色で荒れ模様であった。 二日間続いた雨で木々はしめっている。大西洋側のキャンベルタウンの近くにある緑色の大麦畑には風が吹き荒れ、荒苦しい海の白いしぶきが休日で訪れたキャラバンを包囲していた。 翌日の出発の際、私はさらに悪い嵐に遭遇した。 私のフロントガラスを曇らした吹き荒ぶ潮は、私が知る限りウェアハウスにも届き、ホッグスヘッドやバレルなどの樽が眠る貯蔵庫まで影響して、キャンベルタウンのウイスキーのキャラクターを形成するのである。 キャンベルタウンのウイスキーを独特なものに仕上げるのはこの潮なのだ。

1832
稼働中
Campbeltown, PA28 6DS
キャンベルタウン