Jump to Content

グレングラント

ソサエティ初ボトリング 1983年
起業家のケーススタディ 起業の斡旋の際に、グレングラントの歴史は非常に魅力的な模範となるだろう。 それにはまず、生き抜くための鋭い遺伝的才能が必要である。 1840年に蒸留所がジェームとジョン・グラントは蒸留所を操業する前から、兄のジェームスはエルギンで弁護士をする傍ら、地元にある合法、違法双方で生産されたウイスキーを買い取り、無知なローランダーにバーゲンセールであるように見せる商法で販売していた。ウイスキーを買い取る手口として商品代金として、常に100ポンド札を提示し、売り手側(蒸留者)に対して信頼を勝ち得て、ウイスキーを手にいれる手法をとっていた。 弟のジョンも同様に1840年以前からすでに違法ウイスキーの取引によって、穀物商としての収入を賄っていた。彼らはもちろん知恵を絞って生きていたが、大胆な投資をいつするべきかを知っていたのである。アベラワー蒸留所の共同所有者(他者との共同経営者)として6年間の経験を積んだ後、彼らはマレイ州にあるローゼス村の端に土地を賃借し、グレングラント蒸留所を建てた。 そして、その起業が成功の兆しを見せたとき、ジョンはマレイ州鉄道の筆頭株主となり、1844年にジェームスはエルギン評議会のメンバーとなり、鉄道網の完成を推進し、収益性の高い南部市場に直接アクセスできるように働きかけた。 この一件わがままにも思える決定も、彼ら自身の社会的責務の行使によってバランスが保たれていた。ジョンは、1841年にローゼスライフル協会とエルギン州ボランティア団体を設立し、またエルギンとロッシーマウスハーバー会社のディレクターも務め、ローゼスに女学校の立ち上げと寄付などの活動も精力的に行ったという。 1820年、ジェームスは若くして、スコットランドの歴史の中でも有名な最後の一族である「Raid on Elgin」に参加した。 兄弟は、蒸留所と地元のコミュニティの良好な関係を創り出すことにも細心の注意を払い、彼らの一族による操業は3世代にわたって続いた。 1872年にジェームスの息子が25歳で蒸留所を継承した時、スペイサイドはすでに業界を支配する勢力をもっていた。 「The Major」または「Glen Grant」と呼ばれていたジェームスの息子は、グレングラントの生産能力を急速に拡大し、主要ブランドとして成長させていった。 1877年、彼はモルトの畜舎を倍増させ、増設した2つのスチルに供給するために、新たな粉砕機と発酵施設も追加した。 1886年までには冷却冷蔵庫が設置され、蒸留所に電力による明かりも灯されるようになった。 1898年に彼は近くの麦芽工場を購入し、第二の蒸留所Glen Grant No.2を建設した。(1965年にキャパドニックとして再オープン)その蒸留所はフィリングの設備を持たないため、二つの蒸留所の熟成庫をつなぐ有名な「ローゼスウイスキーパイプ」を使用してキャパドニックのウイスキーをグレングラントで樽に補填した。彼はグレングラントを帝国の遠方に売り、1900年にはシングルモルトの先駆者となった。現在、グレングラントの出荷量の40%はシングルモルト用である。 The Majorの活力は無限にも見えた。彼は10人の子供を育て、伝説のハンターであり、猟師であり、漁師でもあった。また蒸留所の隣に壮大な大理石の邸宅を建て、庭園に20エーカーの果樹園を作り、遠方を旅した植物学者のエキゾチックな新種の植物などを植樹した。 彼は自身の若い第二の妻を同伴し、インドやジンバブエなどの国で狩りを行ったという。(朝食前に6匹の蛇を仕留め、水穴からワニを捕獲したという。)彼はグレングラントをマラリアの予防用に常備し、服用していたのではないだろうか。この遠征で2人の孤児を救助し、そのうちの1人をローゼスに連れ帰った。 彼はビアワ・マカラガと名付けられた。(ビアワは路上で見つけられたためで、カランガは彼の所属していた部族にちなんで。) ビアワは地元の教育を受け、強いローゼスのアクセントで喋ったという。 そうして彼はThe Majorの執事となり、1972年までグレングラントハウスで生活した。The Majorはハイランドリーグのサッカーチームに寄付を行ったり、カーリング用の池を提供したりと、継続して地域社会に住む人々への恩恵を施した。 またマレイ州鉄道会社の叔父の部署責任を引き受けたりもしたが、この話は華やかさに欠けるかもしれない。メジャーは、彼の娘たちに幾分、暴君的な父親であったという。そのうち3人はなんとか、彼の傍若無人ぶりに耐え抜いたが、誰も彼の後を継ぐことは許されなかった。代わりに1931年に彼とはまったく異なる起業家としての腕前をもった孫を後継者として指名したのである。彼の孫にあたるダグラス・マッケサックはオックスフォード大学で高等な教育を受け、幼き頃からラグビーを習っていた。その卓越した運動神経でスコットランド代表のクリケットチームにも選出されたという。 1940年代には戦争捕虜となった。 その後、グレングラントの経営を彼が求めていたわけではなかったが責務として受け入れた。 彼は労働者のために私的年金を導入し、65歳で強制的に退職するという規律を取り除いた。 彼はグレングラントハウスを職員の住居のために提供したり、住宅手当てを与えたりもした。 彼は英国を広く旅し、ワインやスピリッツ商人、そして小売業者との利益的な関係を作り出していった。 イタリアの商人アルマンド・ジョバンニに彼のウイスキーの販売を委託するというリスクを負ったが、そのことでイタリア市場でのグレングラントの今日の基盤が築かれることとなった。 ダグラスは人間味のある経営者であっただけでなく、セールスマンとしても才覚を現した。 ウイスキー産業における、一連の戦後景気の後退を予見し、グレングラントを有限会社として設立した。1952年にジョージ・スミス、続いて1972年にヒル・トムソンと合併し、グレンリベット蒸留会社を作り、最終的には拡大の維持にかかる資本投入の必要性を認識して、1978年のシーグラムによる買収を促進した。 彼は1987年に非常に敬愛されて亡くなった。 最近グレングラントを退職したマネージャーであるボブ・マクファーソンは、蒸留所の開発について私に最新の情報を教えてくれた。 小柄で物静かというよりむしろ無口な男であったが、ユーモアのセンスを持つ男で、蒸留所の昔話や、従順な収税吏とその目を掻い潜る地元民の創意工夫について話してくれた。 ウイスキーパイプからウイスキーをくすねるものもいた。 しかし、より効率的な方法としてエルギンの鉄道の側線に一晩置かれたウイスキーを別の種類の起業家たちが貨車に忍び込み、カスクからスピリッツを抜きとってスペイサイドで手頃な価格で売っていたという。品質検査員は、届けられたカスク内の残量の少なさにしばしば驚かされたという。 またボブはシーグラムがどのように蒸留所を合理化し拡張したかも説明してくれた。 同社はウォッシュバックを10台に増やし、1986年には、巨大な新しいスチルハウスを建て、もっともとあった古い二つのスチルに加えて、ジョン・グラントによって開発された「精留器」(より効率的な還流システム)を持つオリジナルのスチルと全く同じ型の新しい6基のスチルを増設した。 蒸留所を訪ねると、過去に使用していたリベット止めの、石炭直火蒸留器が来訪者たちの目に止まる。その蒸留器はWee Geordieと呼ばれるスピリットスチルで、グレングラントの2番目のスチルGerodie(火入れをした人間の名前からとった)のペアとして使われていたものである。 The Majorの時代には来訪者を温室の中でメロンや桃やブドウなどを育てていた果樹園に連れていってもてなしたという。 温室こそ取り壊されたが、庭は壮大に復元されており寂しい感じはしない。私たちはマッシュに使用する水を通す、キャパドニックの井戸を通り抜けて登った。その水は在来の植物やエキゾチックな植物の広い渓谷を抜け、花や木々ユリの池の横に沿って滝壺に到達する。山峡をぬけた川の水は滝の下で大きな音を立てて弾け散って庭に達する。 The Majorの時代にはそこには頑丈な木製の歩道があったといい、滝の上部まで登ることができた。その場所には、岩にぴったりとはめ込まれたグレングラントのボトルとグラスが用意されていたという。 美しいペールゴールドのスピリッツはニートで飲むことができるが、小川の茶色の冷たい水をすくい上げて、混ぜると魔法がかかる。 グレングラントは、5年ものと10年ものが販売されている。 ボブ・マクファーソンは5年ものを人々がどのように飲もうが気にしない。 イタリアではさまざまなものと混ぜて氷に注がれる。 しかし、彼は自身の貯蔵庫のダンネージフロアにて、成熟した10年ものの宝物を非常に大事にしている。より長い時間熟成したものや、シェリーカスクでフィニッシュされているものにはあまり好みを示さない。どちらも魅力的な新しいビジターレセプションエリアで販売されているので購入できる。

1840
稼働中
Rothes, AB38 7BS
スペイサイド