Jump to Content

ダラスデュー

ソサエティ初ボトリング 1987年
ダラスデューはスコットランドの蒸留所の中で、最もユニークだと言える。 蒸留所はエルギン出身の建築家で蒸留所建築の専門家チャールズ・ドイグによって設計され、1898年に建設が開始され、その翌年には蒸留器から最初のスピリッツが流れ出した。 1983年の生産をもって最後となったが、現在はスコットランド歴史博物館として完全な状態で保存されており、すぐにでも蒸留を再開できる形で現存している。 DCL社が1980年代に閉鎖した21箇所の蒸留所のうち、いくつかの蒸留所は率直に言って、優れた蒸留所であったとは言い難いが、ダラスデューの閉鎖は実に惜しい気持ちを抑えられない。 ダラスデューはシングルモルトとして高い評価を得ていた。 著名なウイスキー評論家のジム・マーレーは、「神秘的な複雑味を持つコーヒーのような美酒」と称した。 スコットランドのこの周辺の地域のウイスキーの中でも、上位10の優れたウイスキーに容易に選ぶことができるだろう。 ダラスデュー蒸留所は、マレイ州のフォレス行政区画の約1マイルほど南に位置し、グラスゴーにあるブレンディング会社ライト&グレッグ社のアレクサンダー・エドワードによって建設された。 もともとは“ダラスモア”と呼ばれていたが、ライト&グレッグ社はウォルター・スコット卿のThe Lady of the Lakeのキャラクターにちなんで名付けた、人気のブレンデッドウイスキー“ロデリック・デュー”を生産していたため、ダラスデューと改名した。 ダラスデューとはゲール語で「黒い水の流れる谷」という意味で、ダラスの小さな村からは6マイル離れている。その村は13世紀にマレイ州一帯を所有し、ダラスデュー蒸留所の投資者でもあったウィリアム・リプリーの子孫であるジョージ・ダラス米副大統領が1845年にテキサス州で名を馳せたことから名付けられたという。 アレクサンダー・エドワードは情熱的なウイスキー起業家でもあり、彼の父親からベンリネス蒸留所を継承後、クライゲラキ蒸留所とオルトモア蒸留所も所有した。 ダラスデュー蒸留所に加えて、ベンロマック蒸留所も彼の財産によって建てられた。 1980年代にフォレスにあった蒸留所、ダラスデューとベンロマックの両方が閉鎖されたため完全に遮断されたように見えたが、エルギンのウイスキー商人のゴードン・アンド・マクファイル社の手によって再びベンロマック蒸留所が復活している。 ダラスデュー蒸留所は主要な大麦生産地域の近くに位置し、ハイランド鉄道の恩恵も受けて、ウイスキー事業の歴史における貴重な役割を果たしていた。 年間に約18,000人もの観光客を集めていたという。 ダラスデューは1890年のウイスキーブーム(5年間に19箇所の新しい蒸留所がスペイサイド地区に建設された。)と同時期に生産を開始し、ライト&グレッグ社は1919年まで生産を続けていたが、自主的に清算に屈した。 蒸留所はその後、キャンベルタウンに2つの蒸留所とアイラ島のロッホインダール蒸留所を所有するベンモア蒸留会社の手に渡った。 しかしキャンベルタウンウイスキーの需要の低迷により、同社はDCLに売却されたが、ダラスデューは1929年から1936年の間閉鎖され、DCLの子会社であるScott Malt Distillersの賛助により操業を再開した。 1939年4月に火災が発生し、修理は間もなく完了したが、7,000ポンドにも及ぶ被害総額になったという。 第2次世界大戦のあおりを受けて、生産が一時ストップされ、1947年には戦後のウイスキー枯渇に対する要望を満たすため、蒸留が再開された。 しかし、1983年までにその渇きによる供給は“ウイスキーロッホ”(ウイスキーの過剰在庫)となってしまい、その年の5月にDCLに牽引された蒸留所の過剰生産削減のために閉鎖を余儀なくされた11箇所の蒸留所の一つとしてその幕を閉じた。 蒸留所は1983年に閉鎖されるまでの間、ベンモア蒸留所に引き続きライセンス供与されていたため現在蒸留所のオフィスの扉の上には今もベンモアという看板が残っている。 1986年、ダラスデューはヒストリック・スコットランドに寄贈され、一般のアクセスを可能にし、現存する蒸留所施設はそのまま残され、ウイスキー製造に関する情報を提供するために蒸留所が改装された。 オーディオガイドを手渡され時間を気にすることなく、自分のペースでウイスキーを作るプロセスを学ぶことができ、他のどのツアーよりも蒸留の仕組みを学ぶことができる。 新しいポットスチルは1963年に設置され、10年後には自動石炭火力発電システムが蒸気加熱に置き換えらたが、それ以外は元の状態に非常に近いままである。 業界の繁栄の中でも大幅な拡張も、アップグレードもされていないダラスデュー蒸留所を訪れることで一世紀前のスペイサイドの小規模蒸留所がどのように生産が行われたかを知ることが出来るというだけでも、DCLの閉鎖決定が必ずしも無駄なものではなかったと言えるであろう。

1899
閉鎖
Forres, IV36 2RR
スペイサイド