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クライゲラキ

ソサエティ初ボトリング 1987年
自分のウォッシュバックを作った男 書き出しは少々大袈裟ではあるが、あなたの興味を引いたことは間違いないだろう。 アンソニー・トゥルーンがクライゲラキ蒸留所を訪問した際、マネージャーであるアーチー・ネスとウイスキーブームの時代を思い返した。 彼自身が蒸留所のウォッシュバックを作ったわけではない。 しかし、彼が関与していたことは確かなことである。 1964年に、クライゲラキ蒸留所が完全に再建された時、彼は若いスタッフの一人だった。 60年代と70年代にスコッチウイスキー産業は楽観主義の時代を迎えた。いくつかの新しい蒸留所が建設され、多数の古い施設が拡張された。クライゲラキ、スペイサイド(1891年のもの)がこれらのうちの一つであった。 スチルは1組から2組に「倍増」された。そして伝統的なダンネージ式の熟成庫の建物を除いて、それらのほとんどは破棄され、新しいものに建て替えられた。これは悲しいことであるがまた不可欠なことでもあったのだ。 元の建物のレイアウトは、エルギンの著名な19世紀の蒸留所建築家チャールズ・ドイグによって設計された。このようなオートメーション化の到来は、ウイスキー蒸留技術の進展にとって大事な進化であり、農場で始まったローカルな活動を国際的な事業に発展させたのだ。元の建物ではもはや十分ではなかったのである。 この驚くべき変遷がおこる数年前に蒸留所にマッシュマンとして入社したアーチー・ネスは、そのすべて見てきた。 信じられないことに、蒸留所の再建と再装備にはわずか9ヶ月しかかからなかったという。特に彼は発酵に使用する大きな容器であるウォッシュバク8器の建設を印象的に覚えており、仕事はグラスゴーにあるクーパーの会社に委託したのだという。 この会社は、すでに平たく南京かんなで形作られたオレゴン松の太い桶板と、一緒に周囲を締める大きな鉄のフープをクライゲラキ蒸留所にもちこんだ。 結局のところ、伝統的な木製のウォッシュバックは、広大な土台に立つ巨大な樽となんら変わらない。 アーチー・ネスは、樽工の監督の下、ウォッシュバックを組み立てるのを助けた蒸留所の労働者の一人だった。 木製の桶板を所定の位置に保持した状態で、金属製のフープを下向きの位置に押し込む。ウォッシュバックの周りに配置された何人かの男たちで均等に重金属のハンマーでフープを打ちこんでいく作業は「非常に大変であった」と話した。 アーチー・ネスはマネージングのスキルを、バルミニック、ベンリネス、ダルユーイン、コンバルモア、グレンロッシー、スペイバーン、インペリアル、カーデューなどのユナイテッドディスティラリー社グループの他の工場での勤務を経て習得した。 スペイサイドでは、蒸留所を変える度に遠くに出かける必要はないのだ。 30年後に自身が蒸留の技術を学んだクライゲラキ蒸留所に戻った時も、彼が製作を手助けしたウォッシュバックはまだ使われており、毎週47,000リットルの素晴らしいスペイサイド麦芽の発酵に用いられているという。 クライゲラキ村の名を冠する蒸留所は、「ホワイトホースの蒸留所」として地元で知られている。これは、現在日本でも非常によく売れているブレンデッドウイスキーの重要な構成原酒であるからである。しかし、それだけでなくアイラ島と非合法な蒸留の時代に遡るとある話があるからだ。 1740年代に地元では10ほどの小さなボロ小屋で蒸留された、もちろん熟成もままならないウイスキーが飲まれていた。 そして19世紀初期の頃、この技術は合法化されたことによって進化を遂げ、ラガヴーリン蒸留所が誕生した。 1878年、ピーター・J・マッキーという男が同社に入社した。 彼はスコッチウイスキーの偉大な先駆的愛好家の一人になったのだ。 "休み知らずのピーター"、彼のスタッフは彼をこう呼んだ。 アイラ島で技術を学び、その後パートナーシップを結んで、1888年にクライゲラキを建設したのである。そうしてホワイトホースブレンドを開発し、世界市場を見事に手に入れることに成功したのだ。 クライゲラキ蒸留所はその当時、利便性の高い鉄道があったという非常に一般的な理由でその場所が選ばれた。 建物は、冷却水と電力を供給出来るよう、フィディック川のほとりに建てられた。 1964年の再建までは、水車を動力としてウォッシュスチルを運転した。 ウイスキーの仕込み水も同様に、コンバルの丘から最大で40フィートほどあるブルーヒル・ダムのおかげで夏の間でも水不足に悩まされることはなかったという。 アーチー・ネスが蒸留所に勤めだした1962年には、最大で50人ほどのスタッフがいたとされ今日の10人と比べて非常に多い。 フロアモルティングの施設を保有し、キルン塔や、小さな製樽場も持っていたという。彼は全ての生産の工程の過程の中で経験を積んできたが、オートメーション化がなされる前の製造を非常に楽しんだと語っている。それは非常に興味深く、活動的な作業であったという。定期的に温度をチェックし手動でバルブの操作によって行われていた。その頃は4回ほど温水を投入し、温度の調整を測っていたが4回目に注入する温水はただ中央にある汲み出し口に長い取手のついたシャベルのようなもので掻き集めやすくするためだけに使われたという。 最近では、この工程は機械によって管理され、三度だけ温水を投入するようになっている。このように計算された生産は、常に蒸留所の生産者の算術的に素晴らしいロジックに基づいて行われている。毎週5日間、117トンのモルトは13回のマッシュに分けられ、26回分のウォッシュがスピリッツに変換される。 この蒸留所にないものといえば、旅行客や見学を受け入れていないということだ。クライゲラキ蒸留所は効率化のために再建されたのであって、人を呼び寄せるためではないということだ。 毎週金曜日にはマネージャーと彼の仲間は集り、サンプルのノージングを行う。 彼らの熟成していないスピリッツは非常に強く、完璧なまでに品質管理が徹底されている。この段階ではすでにワクシーな甘みを求められ、少しのピート風味も認められないのだという。 生産の約10分の1はシングルモルトとしてボトリングされ、平均的なスペイサイドモルトの平均熟成よりも何年か長く熟成を重ねる。 アーチー・ネス本人が携わり、作ったウォッシュバックから、あなたのグラスに届くまで本当の意味で魅力的な旅路を経ていることだろう。

1891
稼働中
Aberlour, AB38 9ST
スペイサイド