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クライヌリッシュ

ソサエティ初ボトリング 1986年
ビスケット工場
クライヌリッシュはUDV社の所有する蒸留所の中で、最も北に位置する蒸留所である。
また、ウィックにあるプルトニーに次いで、英国本土で2番目に北に位置する蒸留所でもある。
蒸留所はサザーランドにあるゴルフ場と、漁師町であるブローラの郊外をA9で少し北にいったところに位置する。
現在の工場は、1967年に建築されたもので、すぐそばにある生産中止となっている旧蒸留所と比較すると個性は乏しいかもしれない。
旧クライヌリッシュは、エレガントな蒸留所設計の古典的な一例で、パゴダ屋根がそびえ立ち、均整のとれた倉庫を備えている。
ウイスキーライターのゴードン・ブラウンは新蒸留所をビスケット工場と揶揄し、ジム・マーレーはそれを「靴箱」と呼んでいる。
どんな形、スタイルの蒸留所であったとしても、ハイランドで最も高く評価されているシングルモルトの1つを生産しているという事実は変わらない。
クライヌリッシュで作られたウイスキーは長い間、愛好家によって高く評価されてきた。
また、文学史学者のジョージ・セインスバリー教授は、グレンリベットと混ぜ合わせたものが特にお気に入りであった。
彼は普段から、タリスカーやグレングラント、アイラモルトなどを混ぜて楽しんでいたという。
ソサエティでは、セインツバリーヴァテッドモルトに対抗できるメンバー同士のコンペティションを開催するべきかもしれない。
クライヌリッシュは時に、驚くほど西海岸のウイスキーの特徴を持っている評価を受ける。
経験豊富なテイスターでさえ、グラスに注がれたクライヌリッシュを飲めば、北ハイランドモルトではなくアイラであると思い込んでしまうほどである。
それほどピーティで、海藻のような性質をもっているのだ。
蒸留所のマネージャーであるボブ・ロバートソンはクライヌリッシュについて「わずかにスモーキーでフルーティーな花束」ではあるが、よく言われるように海の味は私には感じられないと主張している。古い蒸留所ではヘビーピーテッドの麦芽をよく使用していた。
新しいクライヌリッシュでは中程度のピーテッド麦芽をより多く使用している。
旧クライヌリッシュは、1819年にスタッフォード侯爵によって設立された。
彼はサザーランド公爵の娘と結婚し、広大なサザーランドの土地を得え、ハイランドクリアランスを行った有名人である。
サザーランドの土地50万エーカーから約15,000人もの人を追い出し、より有益な「作物」チェビオット羊を土地に招き入れた。
蒸留所は、サザーランドの沿岸周辺に住む小作人によって引き続き生産された安価な穀物を利用するために建設された。
蒸留所建設に至った、もう一つの理由として、近くに16世紀以降採掘される石炭鉱床の存在があった。
しかし、そこで採掘された石炭の品質は低く、量が限られていたため地元の泥炭地で掘り起こされた泥炭も燃料として使用された。
スタッフォード侯爵の土地管理を務めたジェームス・ロッホは、1820年に「最初に多くの人間に土地を貸したのはクライヌリッシュ蒸留所で、最近では、それはミドロジアン郡出身のハーパー氏に引き継がれた」と書かれている。
また蒸留所の建築は比較的安価な750ポンドの費用で出来たため、その残りの費用を利用して、小作人たちにすでに違法蒸留所への利用用途の決まった安定した農作物を作らせるための土地の貸し出しを行うことができた。
クライヌリッシュはジェームス・ハーパーの後にアンドリュー・ロス、ジョージ・ローソンによってライセンスが取得された。その後1896年にエインズリーとヘイルブロンのリースブレンド会社によってサザーランドから購入され蒸留所は実質的に再建された。
1912年にその会社は破産し、クライヌリッシュはディスティラリー・カンパニーリミテッド社(DCL)とジョン・リスクによる共同所有権を取得されたが、13年後にDCLによって買収された。
蒸留所はDCLの子会社であるスコティッシュ・モルト・ディスティラリー社によって運営され、1930年代の不況期に閉鎖されてしまった。
第二次世界大戦後、クライヌリッシュの需要は再度高まり、需要をまかなう供給能力の向上のため、1組のスチルだけを備えた古い蒸留所は、最終的に自らの成功の犠牲となった。
1967-68年に、既存の蒸留所に隣接する土地に新しい蒸留所が建設された。
その新しい蒸留所はクリヌリッシュと呼ばれ、古い蒸留所はブローラと改名された。1975年から新しい蒸留所とともに稼働され、1983年にDCL社の閉鎖の波にのまれてブローラ蒸留所は閉鎖されてしまった。
裕福なアバドニアン(アバディーン出身者)のボブ・ロバートソンは、新しい蒸留所の建設の終了とともに、クライヌリッシュのアシスタント・マネジャーに就任した。
1990年にクライヌリッシュに戻る前に、バンフやダルウィニーでもマネージャーを務めた。
「ブローラ」とは何か?「クライヌリッシュ」とは何か?
そのウイスキーは、1967年以前には、旧蒸留所のウイスキーがクライヌリッシュと呼ばれていたため、曖昧である。
その後、ウイスキーはクライヌリッシュとして充填されていたが、カスクにはブローラと印字されていた。
クライヌリッシュは、ブローラの町の水源となるクラインミルトンの小川から水を汲み出している。
6つのウォッシュスチルと6つのスピリットスチルを持ち、年間300万リットル以上のアルコールを生産している。
ブレンディングでの使用に加えて、UDVは現在、4つの自社のシングルモルトの一つとしてクライヌリッシュシングルモルトを販売している。
クライヌリッシュでは14人の常設スタッフを雇用し、年間に10〜12万人の訪問者を集めている。 UDVによって最近選択されたビジターセンターを強化する6つの蒸留所の候補のうちの1つでこそないが、現在提供されている印象的な歓迎は、慎重な予算編成と、蒸留所スタッフの育成によって成り立っている。
ロバートソンが解体の候補に上がる建物の、古い蒸留所を維持しようとしているのにも同じことが言える。彼によると、「スチルハウスはほぼ変わっていないので、理論的には新しいウォッシュバックが導入されれば再稼働できる」。メンテナンスの面では、クライヌリッシュの一部を効果的に使用すると主張している。
ブローラの近くにはダンロビン城、サザーラン伯爵の邸宅がある。
アルフレッド・バーナードは1880年代に訪れた際に、息を呑むほどの美しい城を詳しく描写したいため何度もこの街を訪れ、クライヌリッシュ蒸留所の特徴を徹底的に記していた。
彼が「サザーランドの伯爵のお気に入りの座席」と表現するそのお城は、1097年にロバート、サザーランドの第2伯爵によって創設された。
そのため名前はダンロビンとなっている。それは王国の中で、最も豪壮な宮殿の一つで、近年に増設されたものにもすべてブローラで取れる白い軟石によって作られている。
アルフレッドは、生産能力の急増も賞賛しており、平均3,000ガロンを仕込める4つのウォッシュバックと、石炭直火焚きのポットスチル2器、900ガロンの容量を持つスピリットコンテナーを保持し、平均年間生産量20,000ガロンに達していると記述している。
また、クライヌリッシュのシングルモルトは、王国全土に顧客を持ち、需要が非常に大きくなっていたため、何年もの間ブレンド用にする供給を拒否せざるを得なかったほどだ。
クライヌリッシュは1880年代にも人々を虜にしたウイスキーであったと言える。
現在の蒸留所が作られた約80年後の今でも、世界中のウイスキー愛好家のおかげで減少の一途はたどっていないことが明らかである。

1867
稼働中
Brora, KW9 6LR
ハイランド