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ベンネビス

ソサエティ初ボトリング 1989年
フォートウィリアム最後の生き残り スコットランド最高峰のベンネビスに登頂するため、フォートウィリアムの街を訪れる旅行者は、同じ名前のシングルモルトを見つけて山登りの長い、困難な一日の後に痛みを和らげ、骨を休める。 スコットランドの西海岸は、豊富な降水量を持ち、非常に緑豊かで美しい景色を誇っている。 ベンネビス蒸留所では、雨や霧がベンネビス山脈を囲む日には、多くの来場客がツアーやビジターセンターにある喫茶室でウイスキーや美味しいショートブレッドを楽しんでいる。 フォートウィリアムには、ベンネビス、ネビス、グレンロッキーの3つ以上の蒸留所があった。ネビス蒸留所のすべて解体されてしまい、姉妹蒸留所であるベンネビスと住宅地のみが現在残っている。 グレンロッキー蒸留所のオーナーは、建物の多くをホテルやオフィスに改装し現在、さまざまな目的で使用されているが、モルト貯蔵庫、充填室、熟成庫そしてパゴダ屋根は、グレンロッキーの敷地内に残っている。 ベンネビスは現在、フォートウィリアムに唯一生き残っている蒸留所であり、スコットランド西海岸に残る2つの蒸留所のうちの1つである。 ベンネビス蒸留所は、1825年にジョン・ロング・ジョン・マクドナルドによってライセンスが取得された、この地域で初めての合法的な蒸留所である。 彼の6フィート4インチ(193.4cm)という高身長は、新たに認可された蒸留所に敵対してくる不法蒸留業者を沈黙させるのに役立った。 ベンネビス山の麓にある蒸留所は、山の北側の3000フィートの高さにある2つの湖から非常に純粋な水源を安定的に確保することができた。 さらに蒸留所はリニ湖に近接しており、原材料や成熟したウイスキーを市場に輸送する蒸気船に簡単にアクセスできた。 彼の息子であるドナルドは、後に彼の父親が設立した、蒸留所を引き継いだ。 彼は父親に敬意を表して、ベンネビスのシングルモルトをロングジョンのベンネビスの露という愛称で販売した。彼のウイスキーへの評判はかなり高まっていたという。 ドナルドは、ますます増え続ける需要に応えるために、ベンネビス蒸留所の近くに新しいネビス蒸留所を建設した。 ジョセフ・ホッブスがベンネビスとネビス蒸留所の両方のオーナーシップを獲得する1944年まで、両方の蒸留所の操業はマクドナルド家によって行われていた。 地元に残る伝説として、カナダ人のホッブスが、ベンネビスの購入と同日にネビス蒸留所を購入し、それを隣接するグレンロッキー蒸留所に、倉庫を拡張させるために購入するように持ちかけた。 しかし、ネビス蒸留所の購入から販売に至るまでの間に、ホッブスはネビス蒸留所の壁と門を取り外し、自身のベンネビス蒸留所に設置したという。 その門と壁は今でもベンネビスに立っているが、この敷地に意図されて作られていないため、門をはきちんと閉まらないという。 ベンネビス蒸留所ではホッブスの奮闘が続いた。 彼はポットスチルの隣にグレーン蒸留器を保持しており、ブレンドを作るために必要なスピリッツを自社で蒸留することができた。 それに加えて、彼は蒸留されてすぐのモルトウイスキーとグレーンウイスキーをブレンドし、それをカスクに充填し熟成させていたという。 伝統的に、モルトウイスキーとグレーンウイスキーは別々に熟成させる。 グレーンウイスキーが追加される前に、ブレンドに使用されるシングルモルトはすべて数ヶ月間バットで一緒にマリッジされる。 ホッブスの「BLEND AT BIRTH」と呼ばれたこの手法は様々な結果を生み出し、ウイスキー製造の様々な矛盾を証明する結果となった。 ホッブスの死後、ロングジョンインターナショナルが1981年にベンネビス蒸留所を購入し、所有者となった。 1984年まで、ロングジョン社はベンネビスを保管倉庫と試作のみに使用した。 1984年に再び生産を開始したが、1986年にウイスキー業界全体の生産が減速した直後に生産を終了した。 悲しいことに、ベンネビス蒸留所はもう一度沈黙し、ウイスキーが静かに熟成するだけの倉庫に戻った。 3年後、日本の会社ニッカウイスキー蒸留会社がベンネビス蒸留所を購入した。 オリーブ・チェックランドは彼女の本「Japanese Whisky、Scotch Blend」でニッカ一族とスコットランドとの関係は強くて長い歴史を持つものであると指摘した。 ニッカウイスキー蒸留会社の代表取締役会長である竹鶴政孝は、グラスゴー大学の授業に参加し、第一次世界大戦後スコットランドの蒸留所で働いた。 彼は1920年にウイスキー蒸留所を建設するため、スコットランド人の妻、リタ・コーウェンと共に日本に戻った。 1989年、竹鶴の養子であった竹鶴威はベンネビス蒸留所を購入するために、父親の死から10年後に再びスコットランドに戻ってきた。 ニッカは、ホッブスによって設置されたコンクリート製のウォッシュバックを除去した。 そしてビジターセンターの建設を含む蒸留所の改修に広く投資した。 現在はステンレス製のウォッシュバックを使用しているが、元の4つの銅製のスチルはそのままである。短い太いネックと斜めの肩からでるラインアームはわずかに下向きの角度を持っており、より重くてより華やかな香りがスチル内で発達することを可能にする。 ウイスキーを熟成させるために使用されるシェリーとバーボンの樽は、最終的な風味の形成に貢献する。 蒸留所は現在、豊かなオークの香りと泥炭で強調された10年もののシングルモルトを瓶詰めしている。 ブラウンシュガー、タフィー、りんごのアロマと、ドライで、わずかに苦いフィニッシュを持っている。 スコッチモルトウイスキーソサエティは、最近ベンネビスからいくつかの興味深いカスクをボトリングした。 7年もののファーストフィルバーボンカスクと興味をそそる14年ものである。 そして新たにフレッシュなシェリーバットに満たされたベンネビスはフォートウィリアムの倉庫でソサエティの会員のために今も眠っている。 スコットランドで最も高い山が魅力的に蒸留所の背後にあるためか、あるいはスコットランドとの強い結びつきのために、ニッカがベンネビスを買ったかどうかは別として、日本による蒸留所の所有は将来を保証することになった。 重要なことに、マネージングディレクターを務めるコリン・ロスは、継続してベンネビスでの蒸留を続け、一貫性のある製品の製造のために、新しく新鮮な樽に対する方針を確立した。 彼の指揮の下で、1984年から1986年の間に製造されたロングジョンインターナショナルによって所有されていたウイスキーの在庫は、既存の樽から新鮮なシェリーとバーボン樽に移された。 この10年間で、ベンネビスは安定性と方向性の両方をもたらし、蒸留所とそのウイスキーの評判を復活させることができたのである。

1825
稼働中
Lochy Bridge, PH33 6TJ
ハイランド